ファン・ジニを見て身体表現論を考えた

投稿日:
2009年04月01日
カテゴリー:
メディア

生家に戻ったら両親共に映画というかドラマにハマっていたので、居間でぬくぬくしていると一緒に見ることになる。今日は父親がハマっていた韓国ドラマのファン・ジニを見た。といっても最後の2話だけだけど。

韓国の歴史に敬意を払い、ハングル文字で「ファン・ジニ」を表記すると「황진이」となる。実はハングルを文字としてウェブページに記述するのは今回が始めて。あ、できたっていう驚き(驚きというのもおかしいな)とともに、UTF-8もいろいろとバッシング受けてるけど(例えば収録されてない漢字がたくさんあるとか)、お隣の国の言葉が不十分でも同じウェブページに表示できるのは、うれしいことです。

ドラマ全編を通して見ているわけじゃないからドラマの感想はかけません。そもそも、あらすじは今Wikipedia見て知ったし。が、最後の2話で、かつて考えをまとめた事のある身体運動論について、思いをめぐらすことができた。「論」って言っているけれど、他の人の著作を引用したりとか、主流となっている理論とかそういったものは不勉強でまったく知らないので(そんな講義とったこともないので)、ただぼやぼやと考えたことのある身体運動論と言った方がいいかもしれない。

ここら辺は、以前まとめた「日本を含めた世界で実践されているオリエンテーリングへの提案」が近いことを説明してるかな。人間の行為として身体運動を考えたとき、それが人間存在に大してどのような役割を持つのかということ。

でも思うのは、「それが身体運動を行う人間の本性だからだ」という論拠は、果たしてそうなのかという点。そのさらに奥にいろいろな観点が隠れている気がして、まだまだ掘り下げれば掘り下げるほど言葉(概念)を取り出せそうな、そんな気がする。けど、面倒くさがってなかなか。

どうも私の作る文書(プログラムも含め)間には私には理解することの出来ない相互関係があるようで、なかなか思うように言葉を紡いで行くことができないのでしょう、なんて、梨木果歩がある本に書いていた(「ぐるりのこと」だったかな、「春になったら苺を詰みに」だったかな?)言い訳を解釈して引用してみよう。

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