明日の退職で、3年間の活動に一区切りをつけることにした。

私は、感じたことをそのまま表現したいし。考えるより先に行動していたい。なぜなのか、どうしてなのか、意味をいつも見つめ続けていたい。そういった問いを発し続けたい。どこまでも、どこまでも。このような理由から、私はつねに私を、そのようなことができる状況に置きたい。



私にとって自由と言うのは、きっとそういうことなのだと思う。だとすると、自由というのはとても厳しいことであるし、先の見えない道で不安になることもしばしばだ。正直なところ、目的と目標の定まった活動を続けているほうが、人間集団の固定された価値基準に拠っているというほうが、より楽なことは承知している。が、悲しいことにそれは現在の私にとっては、心身の安定とは程遠いのである。それはなぜだろう。

きっと、その固定された価値基準に対して、自分が酔っていけないからだと思う。世界の99%がそのように固定されているという認識を、可能ならば改めたいのだが、私が私の寄って立つところで聞く事、見る事、それらを統合して判断するに、やはり固定された価値基準というのはどこの世界にも存在する。存在するならばそれはそれでかまわない。

しかし、もしそれらが私の周囲1m以内より近くに入り込んできたとしたら、きっと私は我慢ならないだろうし、現にそのような状況に私は参っている。人間は関係性のみで存在しているわけではないと、私は強く言いたい。

そうか、今わかった。人権とはそういうものだったのか!!いまわかった。人権とは関係性において認められるのではないということはたびたび書籍で読んだが、こういう感覚がそれだったのか。

ハンナ・アレントの著作「人間の条件」の訳本を2年前にチェコの山荘で読んだが、「人間関係の網の目」という表現を今も思い出すことができる。彼女の略歴に興味を持ったため、歴史の本を開き、第2次世界大戦のドイツを調べてみる。ヒトラーは「市民による選挙によって」選ばれたらしい。もう一度読んでみるいい機会だと思う。

(ハンナ・アレントは、現代の女性政治思想家。現代大衆社会の病理と対決することを生涯の課題としたが、そこに、ドイツのユダヤ人家庭に生まれた彼女が1941年にナチスの迫害を逃れてアメリカに亡命したという背景を考えずにはいられない自分がいる)

チェコの山荘でハンナ・アレントに耽ったちょうどその夏、梨木香歩のエッセイ「ぐるりのこと」を読んだ。この児童文学作家の著作は旅のお供にいつも持ち歩いている。ハンナ・アレントの「人間関係の網の目」を思うたびにいつも、その作品の中でもっとも強烈に記憶に残っている「民族の痙攣」という表現を思い出す。

そういえば、ハンナ・アレントの言葉に、もっとも、私の手元には彼女の著作の訳本があるため、彼女の言説を訳者が日本語として表現した努力の成果に、「活動の結果や終わりを確実に予言できない理由は、単に活動が終わりを持たないからに過ぎない。」というのがある。この言葉とそれが説明する背景があるからこそ、私は、いま、オリエンテーリングを終えようと思ったのであり、だからこそ、選手としてやってこれたのだと思う。終わりのことを常に意識しているから、やった。そして今、予定通り終わりを歓迎することにした。

社会的条件と言うものは自分を含む他人が作り出したものである。自分と言う存在が社会的条件に左右されているのは確実だが、その社会的条件は、ある点では終わりを持たない活動を助長し、ある点では活動に終わりを与えている。それに異論はない。社会的条件が自分を含む他人の意図によって設定されているのも、異論がない。私が問題としたいのは、社会的条件が一方向に設定されている場合であり、自分が影響してその方向性を変えられないときである。

民主主義は、この点を解決するものではなかったか。すなわち、社会的条件を整える際の基準(長期的視野)ではなく、自分が社会的条件に影響をあたえるという実感こそが、市民が民主主義を通じて目指したところだったと考える。なぜなら、長期的な視点を人間は持つことができないという認識がそこにはあるからだ。人間の限界への視点、そして人間の変わりに据えるものとして考え出されたのが、中世では神であり(もっともその抽象概念は、後の世では権力のために利用されたのであるが)、現代では人権だと、私は予想している。

日本や中国では、神を選択した。ヨーロッパ諸国は、人権を選択した。私はこの表現を使うことを躊躇するが、日本においては、「誰もがみな、神になりたがっている」。加えて、「誰もがみな、神になりたがるように、社会的条件が整えられてしまっている」。私たちは無宗教だと言う宗教を信じ込まされていて、それぞれの小さな宗教が国の祀る宗教と家族関係を形成して、それも観察して対象化する視点を持つことを監視されているとしたら、それは民族の痙攣と同義語である、と私は言いたい。

因果は複雑に絡み合い、解こうとすると腕が反り、足がもつれる。これがキリスト教教会の影響が根強い社会慣習であれば、もはや神は存在せず、自分ですべての意図をつないで再構築して見つめることも簡単なのだ。だがこの国の慣習においては、意図せずとも神という説明を求める。誰が?社会を構成するひとりひとりが。

ここからは私の考察となるが、さまざまな事象に対する説明の物足りなさが、翻って人の活動を制約し、そこに権力の及ぶ隙間を提供する。人間の間に発生している社会現象は、妖怪と同じように扱われる。たしかに妖怪譚には因果がある。しかし、その因果律に関係するもろもろの登場人物は、人間ではない。息をつき、いちいちの出来事に喜び、悲しみ、迷い、戸惑う人間。そういうものを廃したところに妖怪譚や昔話を位置づけるとすると、日本における現在のスポーツ事象を含む社会学の主流を、別な視点から鮮やかに読み解くことも可能となる。現在においてスポーツ・プレーヤーを「聖人」や「超人」といった、人間を超越した存在という名の「偶像」として据える傾向も存在しているが、これらを人間性の一面を強調する「物語」とすると、キリスト教社会における「聖人」に関する説話や仏教国における説話としてそれらの物語を捉えるよりはむしろ、日本で都市伝説と名づけられている一連の物語や、人間性の一面を過度に強調して話が展開される昔話に近い物語として捉えたほうがより一層の理解が進むと、私は考えている。人間性の一面の強調、これは面白い視点となりそうだ。この視点による分析は、これからの考察とより一層の洞察が必要であるが、私には、日本における言説の多くが、公から個人の間の関係においてまで、この部分の論点に終始しているように感じられるからである。おそらくその根底には、妖怪譚の底流に流れる贈与・互酬という行動様式があるのだろう。そして、それこそが日本の文化であると言う権力を帯びた圧力が、人々の選択を誘導していく。人間は社会的条件によって、その行動を強く左右される。権力がこの社会的条件を設定していく。日本における社会学とはそのような理解をすることもできる。

では、さまざまな事象に対する説明の物足りなさというのは、何によって引き起こされるのか。私が思うに、それは、そこには、「民族の痙攣」があるように思う。これについてはもう少し考えよう。