鬱病の某専務理事と彼を取り囲む者達へ

この最後の文書を、鬱病の某専務理事と彼を取り囲む者達へ奉げようと思う。


以上、日本を含めた世界のオリエンテーリングを観察してきて、オリエンテーリングをする人間の抱える問題とその背後にある構造に触れてきた。最後に、日本オリエンテーリング協会の某専務理事である鬱病の彼について、彼の再評価を含めて記録を試みたいと思う。

日本を含めた世界のスポーツの背後に、スポーツをする人間を競技に動員するという躍動があり、そういった環境の中にあって、スポーツをする人間が、そのスポーツの魅力の発見から遠ざけられているという構造があるならば、それは人間にとって意味のない構造であり、変えていく必要がある。スポーツをする人間がスポーツを行為することでその普遍的な魅力を再発見するという構造を中心にして、スポーツを再編成しなければ、いずれスポーツは、人間存在に対して強い悪影響をもたらすだろう。その一例としてオリエンテーリングを挙げ、これまでの一連の文書で記録を試みてきた。

彼の言動や彼という影響力を利用して何かをしようとする人間にとって、こういった構造を理解することが必要である。そういう観点から、彼の業績を再評価する必要を私は感じているし、そうすることで、彼自身が無意識下もしくは意識下で認識している言動と実態の錯誤、それに端を発する鬱病を軽減することができるのではないだろうか。そしてそれもまた、人間の本性を無視した構造が背後にあって発生しているのだろう。

彼はある大学の教授であり、同時に日本オリエンテーリング協会の専務理事である。過去には日本選手権を十数回連覇し、その成績を除外視すると、世界選手権で最も評価された日本人選手らしい。成績を除外視するとしたのは、日本人選手の中で世界選手権で最もよい成績を上げたのは2003年の塩田美佐だからだ。選手を引退後はSQUARD JAPANという私的な強化組織を数人の仲間とともに設立。このSQUARD JAPANはその後、日本オリエンテーリング協会の強化委員会に統合された。また同時に、世界オリエンテーリング協会のアジア圏の理事として数年にわたって活動。現在はアジア選手権大会によるアジア圏でのオリエンテーリング興隆を目的として、韓国・香港・日本の人脈を利用して活動しているようである。研究として道迷いをテーマに掲げ、近年は山岳愛好者に対する発言力を強めている。彼自身はここ数年、アドベンチャーレースと呼ばれている、多くの道具と時間と費用を要求して多用な移動手段によるでナビゲーションを実現するゲームに親しんでいるようである。彼の業績を簡単にまとめると、以下のようになる。

彼の業績は見事であり、これまで彼がオリエンテーリングに費やしてきたエネルギーには感服を覚える。しかしそのいずれも、集団の中の彼の位置づけを示しているものであり、彼個人の能力を示しているものではない。そこに、彼を再評価する必要性を感じている。彼の持つ社会的な影響力は彼の能力に由来するのではなく、彼の来歴、具体的には出身大学や大学教授という職業が人に与える印象そしてそれらが彼に与えている関係性、そういったものに由来しているのだろう。私自身は彼と何度か話す機会に恵まれたが、彼は彼自身の真実を語る事を諦め、彼の依存している背景、それは心理学や教育学もしくはスポンサー企業との関係性なのだろう、に依拠して物事を語っていた。しかし、心理学や教育学というものを日本という政治・社会・経済的条件の下で社会学的に記述するならば、それは、現行の社会システムに人間を動員するための、たくさんある方法の一つであるということになる。私はここで、社会システムというものが不要であるとか、心理学に意味はないとかいいたいわけではない。彼を記録するためにそういった概念が必要であり、そういった概念を扱うために先のような理解が必要であるからだ。

また選手としての彼の実績に関して記述してみたい。日本選手権を連覇したという実績に関して。私自身は2002年から2008年まで日本選手県に参加したが、そこで実践できるオリエンテーリングの質の低さに驚いた印象がある。「質」とかなり概念的な表現としてしまったが、コース・コントロールやスピード、どれを取っても日本でもっともオリエンテーリングの速い選手を選ぶというコンセプトが選手県大会にあると仮定するならば、私がこれまで参加した日本選手権大会はそのコンセプトから大きく外れていると断言してよい。そこで選ばれるのは、くせのある表現とくせのあるコース・コントロール、すなわち、そういったくせに対する適応をもっともできた選手である。そういうくせに対する情報をもっとも多く集め、それを分析し、体現することができる選手が、もっとも上位に位置するのである。そして、彼はそういう情報を比較的集めやすい状態にあり、それは、彼の持つ特殊な関係性に由来している、ということができるだろう。そして、それがおそらく、日本の学生が大学卒業後にオリエンテーリングを止めていく一つの大きな理由となっている気がする。全日本選手権大会で勝利するためには、トレーニングではなく、そういった職業や来歴に由来する関係性のもたらす情報が大きな鍵を握っているとするなら、大学を卒業した時点で、その選手が日本選手権でどのくらいの位置にいるか決まっているからだ。彼の選手生活はこのように特徴づけることができると思う。加えて全日本選手権を中心とした選手の評価制度に彼が大きく関わり続けてしまったことも、ひとつの悲劇と言えるだろう。彼の競技能力そして体力の低下に合わせて、日本における選手評価制度が変化してきたという構造も描くことができるからだ。そのひとつの結果として、オリエンテーリングの競技力は、回を重ねれば重ねるほど向上するとか、オリエンテーリング選手の競技力がもっとも高まるのは、30歳前後であるといった迷信が作られた。これは逆説的な説明である。すなわち、そういう評価制度の下でオリエンテーリングのありとあらゆる選手権大会が実施されているということ。これはおそらく日本を含めた世界で広く見られる現象のような気がするけれど、特に日本ではこれがほとんど宗教と言えるまでに純化している印象がある。

そして、彼が完成したと一般的に考えられているオリエンテーリング技術論は、おそらく7:00/km程度のものでしかなく、今、私たちに必要なのは、5:00/kmを超えるオリエンテーリング技術論なのだろうと思う。これは私自身が、彼のまとめたオリエンテーリング技術論文を理解し、実践し、そのうえで自分であれこれ試してみた結果、得られた知見によっています。私自身の技術論は、かなりのリスクを覚悟した上でなりたっていて、それでも5:30/kmが最高でしょう。おそらく、その鍵は羽鳥和重にある。日本では評価されなかった羽鳥は、私が入手できた数少ない資料によると、日本以外の評価制度に基づいて設定されたオリエンテーリング大会では、驚くほどのパフォーマンスを示している。羽鳥の再評価を行う必要を感じています。

彼を上のように再評価したい。そしてこの再評価は、彼を取り巻くすべての人間の認識に対する再評価でもある。私自身はというと、オリエンテーリングに没入することなく、オリエンテーリングを実践できるような世界になり、オリエンテーリングの真実を発見することのできる個人がより多く生まれることを祈っています。


おしまい