ナビゲーションは地図遊びではない

ナビゲーションは地図遊びではない。日本で私たちが「ナビゲーション」と呼んでいるもの、日本で私たちがオリエンテーリングの本質として考えている「ルートプラン」は、おそらくオリエンテーリングの本質ではない。

では、オリエンテーリング・ランの本質とはなんだろう。私はこの回答を出す前に、以下の状態を想像している。つまり、オリエンテーリング・ランの究極の形として、「もはや地図を必要としないオリエンテーリング・ラン」。自分の家に帰るような感覚で、地図を持たなくても目的地にたどり着ける。それが、オリエンテーリング・ランを突き詰めて行ってたどり着くところなのだろう。そんな人間存在は不可能なのだろうか。ここからは想像力を働かせて自由に記録した創作である。


たとえば、完全な平面の空間に、私と目的地、今回は自分の家としよう、しかないとする。それは待ち合わせ場所でも構わない。私は自分の家なり、待ち合わせ場所がどのように見えるか、その具体的な映像を頭の中に持つ。なぜかというと、そこに行きたいからだ。もちろん、私は平面にそって移動するということが念頭にあるため、その映像は常に水平の視野で撮影されたものである。私がもし鳥のように空が飛べたのなら、上空からの視野で撮影された映像を必要とするだろう。

この空間は完全な平面なので、視覚に頼ると、自分の家なり、待ち合わせ場所が、はるかかなたにでも風景として見えるだろう。あさっての方向を見ていては、待ち合わせ場所を捉えられるものも捉えられない。とりあえず自分が現在立っている場所を中心に全方位に視線を泳がせるだろう。そうすると、頭の中にある映像と同じようなものを遠くに見ることができる。あれが目的地だ、歩き出そう。

私は目的地を見失わないように、見つめながら歩く。足元が少し気になるが、それは周辺視野で何とかする。人間の目はどうやら、周辺視野のほうが動くものを捉えやすいようで、つまずくこともなく歩くことができる。もっとも、ここは完全な平面なので、つまずく心配はないといえばないのだけれど。歩きながら、考える。私がさっき見たものは、本当に私の目的地なのだろうか。私の住む家であり、そこに家族が待っているのだろうか。もしくは待ち合わせ場所であり、気の会う友人や恋人と落ち合うことができるのだろうか。早く確かめたい。そして目的地に着く。ドアノブを回すなり、気の会う友人や恋人の姿を見つけて、確信を得るわけだ。「少し時間に遅れちゃった、ごめんね」とでも言いながら。

次に、同じ平面で、条件を複雑にしてみよう。目的地は連続していくつもあって、それぞれの間の距離や方向はまちまちであるが、ある目的地において次の目的地を視野で捉えることができるくらいの距離しか離れていない。さて、出発だ。歩き出そう。私は次の目的地を見失わないように、見つめながら歩く。よし、到着した。次の目的地は、と。あれ、視野には複数の目的地が見える。どれが次の目的地なのだろうかと心細くなるけど、慌てる必要はない。なぜかって言うと、すべての目的地は最近よく遊んだ場所だからだ。次の目的地の具体的な映像が自然と頭の中に沸いて出るよ。次の目的地は5つ岩が連続しているその左から2つ目の岩だね。それは目の前にある複数の目的地のうち、たぶん左から3つ目だ。よし、歩き出そう。今までとは違って、複数の目的地が見えているから、左から3つ目の目的地を見失わないように、見つめながら歩く。よし、頭の中の映像どおり、5つ岩が連続しているぞ。左から2つ目だね。あった、目的地だ。次の目的地は、と。そうこうしているうちに、この身体運動にも慣れてきた。たどり着くための方法にある程度確信がもててきたので、歩いているのもまどろっこしいので、走ってみることにする。そしてフィニッシュ。やったね。

では次に、平面の要素を複雑にしてみよう。まず、次の目的地が視野で見ることができないという状態にしてみよう。なんだかよくわからないけど、目が悪くなっちゃって、向こう10mくらいしか見ることができないんだ。え、あっちに目的地が見えるの。どれどれ。うーん、もっと近づかないと見えないよ。え、こっちの方向にある歩数進むと目的地があるって。でも僕は方向を維持するのが大変なんだ。なにしろ10mくらい先しか見えないから、そのつど方向を確認していると、どんどん角度の誤差がたまっていっちゃって、しまいには90度もずれた方向に進んじゃうんだ。え、目的地で焚き火をしとくって。連続して空に続く煙と光で遠くからでもぼんやりと見ることができるだろうって。おどろきだな、そこまでしてくれるなんて。それなら、だまされたと思ってやってみるよ。視野にはいくつも焚き火の光が見えるけど、あの光に向かって進めばいいんだね、よし、進んでみよう。どんどんどんどん、どんどん歩く。ここは平面だから、いつまでも光を見つめ続けていられるね。だんだん焚き火の香りが辺りに立ち込めてくる。お、私の10mの視野でも目的地が捉えられた。あそこに行けばいいんだね。いい香りもするぞ。到着した目的地には焼き芋が置いてあった。きっとこの焚き火で焼き芋を作ったんだね。焼き芋を一本もらって次の目的地に向かおう。

次は、平面に凹凸があって、光でも視野でも次の目的地を見つけられない場合。これはこまった、何しろ見渡しても見えてくるのはのっぺりとした丘やその斜面ばかり。焚き火の光もそれら斜面に遮られて見えないときてる。目的地そのものは今まで何度も遊んだ場所ばっかりだから、近くまで行けばわかるんだろうけれど、こんな平面じゃ目的地そのものを見ることすらできやしない。でもよくよくみてみると、焚き火の煙が空に向かって連続して伸びているのがわかるぞ。しかも何本も。きっとあれが目的地の方向なんだな。次の目的地はよく遊んだ神社の境内の中にある滑り台の下なのに、それが目の前に何本も見える煙のどれなのか検討もつかない。どうしよう。おや、地図が落ちているぞ。地図には焚き火の記号があちこちに描かれている。それら焚き火の記号は一本の線で結ばれていて、まるで一筆書きのようだ。その一筆書きの端点は三角と二重丸になっている。地図の端っこにはこう書いてある。「三角が今いる場所。二重丸が最終的な目的地です。二重丸までは、一筆書きで結ばれた焚き火を順番に通過すること。」今いる場所と周りの特徴が地図に描かれているので、次の目的地の大体の方向がわかるぞ。地図をこうやって水平に持って、ここから見える煙にそれぞれの焚き火の記号の方向が合うように回してやると、できた。たぶんこの地図のこの焚き火はあの煙で、この焚き火はあの煙なんだな。そして次の目的地の焚き火はあの煙に違いない。行こう。僕は走り出した。歩いてもよかったけど、はやく確かめたかったんだ。息を弾ませながら目指した焚き火に近づくと、見慣れた神社の境内が見えてきて、焚き火はその滑り台の下で焚かれていた。滑り台の踊り場からは鉄の鎖がぶら下がっていて、その先では鍋の中に甘酒が温まっていた。とても晴れた秋空だったので気温が寒く、温かい甘酒をもらって次の目的地の方向を考えたのだった。そうこうしているうちに、地図の二重丸までたどりついた。そこには同じ遊びを終えた友達が何人も談笑していた。その中の数人は、地図を水平に持って、現地と対応するようにまわし、次の目的地の方向を確認する作業を間違えて、あさっての方向にある焚き火を目指して大変な思いをしたと言っていたので、私もその話の輪に加わって、自分も同じ勘違いをしたことを話して、帰ることができてよかったという安堵と共に盛り上がったのだった。

次は、まったく知らない場所でのお話。平面は通常の地球表面であって、焚き火もなし。まったく知らないのでそこがどうなっているのか、この先に何があるのかわからない。右手にはコンパスを持っている。コンパスはよくわからないけどへんてこな形をしていて、親指に固定されている。コンパスの針は幅が1cmもあって、ぶんぶん振り回して針を回しても、南北を指して止まるのが異常に早くて驚きだ。隣にいる人が、私は今、この地図に描かれている三角のところにいるということを最もらしくつぶやき、地図を渡してくれた。地図は地球表面のある面積の空間をたくさんの記号で表現してあって、赤紫色をした複数の丸とそれを繋ぐ一筆書きの直線が描かれており、その端点は三角と二重丸になっている。隣の人がもう一言つぶやく。すべての丸を順番に通過して、この二重丸の地点までたどり着いてください。ちょっと待って、と私は言う。私はこの辺りに来るのは初めてで、どこに何があるかわかりません。行きたい場所もありません。なのに、どうして行く必要があるんですか、と尋ねる。するとその人は、答えた。同じ地図を持って、いろんな人が同じコースを回っています。その中には、君の友人も含まれています。みんなこのコースを1時間以内に完走することはできないでしょう。でも、君にならできるかもしれない、と。私は思う。確かに、私にはその可能性があるかもしれない。けど、可能性があるということと、それができるということ、そしてそれをしたいということはまったく別なことだ。彼は言う。何を悩む必要があるのかな。君がもし1時間以内に完走したら、君はみんなより優れているということの証明になる。そうしたら私たちはその証明を利用して、さまざまなアピール活動ができるんだよ。君だって、企業のスポンサーを得てより充実した活動ができるかもしれない。そうしたら、君がそれをする事がもっと楽になるだろう。それは巡り巡って、さまざまな人にオリエンテーリングに着目してもらうチャンスとなるんだ。わかるかい。彼の返答に対して、私は長く考えたかったが、スタート時刻まで間もない。少し考えを整理したうえで、答えた。私は、その可能性があるだけで十分であって、それをするつもりはありません。私は、私が楽しいと思うからその行為を行いたいのです。そこに私とその行為以外のものを取り入れたら、たぶん私はその行為をしなくなるでしょう。なぜかというと、その行為の面白さが損なわれてしまうと私は思うからです。彼は私の言うことがよくわからないのか、こう言った。より多くの愛好家を抱えなければ、いずれその行為もできなくなるのだよ。ここ数年、愛好家は減るばかりだ。それに伴い、競技レベルも低下しつつある。アピール力がどんどん失われているんだ。ただでさえ、特定の競技場を持たないこの行為は、その競技領域にある利害関係が深刻化する事によって競技領域を奪われている。より多くの人を集めることで、それを奪い返さなければならないんだ。このままでは、この行為はいずれできなくなってしまうだろう。君はそれでもかまわないのかな。私はそこで押し黙ってしまう。確かに、彼の言う事には一理ある。だが、違和感ばかり残るのは何故なんだろう。

スタート時刻まで残り3分を切った。私は、まだ考えがまとまらない。時間ばかりが過ぎていくが、過ぎていく時間がとても長く感じる。まるで3年が10年やそれ以上のように感じられる。それもそのはずだ。私はこの3年の間、自分の判断に基づく行為を繰り返し、それを振り返ることでよりよい認識にたどり着くという行為を続けてきたのだから。

スタートまで残り1分を切った。彼は私の持っているもう一つのもの、それは記録を残す磁気装置である、の番号を彼の持っているリストと照らし合わせ、起動装置を近づけることで、磁気装置の起動を確認した。スタート10秒前になったら呼びかけるので、もう一度この起動装置に磁気装置をはめ込んでください。スタートになったらまた呼びかけるので、起動装置から磁気装置を離して競技を開始してください。

スタートまで残り50秒くらいになったところで、私は口を開いてみた。あなた方は、なぜこの行為をしているのですか、と。彼は間を置かず答えた。楽しいからだよ、と。私はその間に対して不信を抱いた。なぜかというと、その間は人間が考えるという行為を行うには短すぎたからだ。おそらく、彼はいつも、この質問に対して反射的にこう答えることにしているのだろう。すかさず私はこう質問した。なぜ、楽しむということがあなたにとってそれほど重要なのですか、と。彼はそこで押し黙った。

スタートまで残り30秒を切る。おそらく彼の次の発声は、あの繰り返し繰り返し聞いたスタート10秒前の呼びかけ、そしてそれに続くスタートの呼びかけだろう。そうなったら私は、否応なしに、この競争を走らなければならない。私の能力のすべてをかけて。私は今すぐにでも、この競争をするかどうか、選ばなければならない。彼らにとって、この競争という行為を楽しまなければならない理由は何なのだろう、その背後にはどんな構造があるのだろう。

10秒ほど考えた。まだぼんやりとしかわからない。さらに5秒考える。スタートまで残り15秒だろう。ぼんやりとしかわからないが、思い切って口を開いてみた。あなた方は、この行為を楽しむことで、何かをごまかそうとしているのではないのですか。あなたは、この行為の外にあってあなたを取り巻く政治・経済・社会的条件によってあなたが抱えているさまざまな疑問や違和感を忘れるために、この行為を利用しているのではないのですか。発言すると同時に思った。私のこの回答は、行為の持つレクリエーションという意味合いの否定かもしれない。しかし、人間が生きている空間を現在生きている人間に合わせて変えていくことなしに、現在生きている人間が幸せに、楽しく暮らしていける方法など、人間に残されていないのではないだろうかという確信が、私の中にはある。と同時に、そういう行為ばかりでは憔悴しきってしまって、人間は生きてはいけないのではないだろうかという確信も同時にあって、私は、アンビヴァレントな精神状態のまま、そのバランスをかろうじてとっている。

残り10秒。彼はいつものようにスタート10秒前の呼びかけをした。磁気装置を起動装置にはめ込んでください、と。おそらく、そうなのだろう。すると、みんなのスポーツという表現で説明される概念や、Sports for Allという概念が根底に持つ危険性とは、そういったことなのではないだろうか。ではなぜ、そういった構造が存在しているのか。そういった構造はどういう形をしているのか。なぜそういった構造の下にある人間は、それぞれが自分の利害に基づいて行動しているはずなのに、結局のところ同じ状況に落ち着いてしまうのだろうか。なぜ多くの人間をそこに動員する必要があるのだろうか。確かめたい、確かめてみたい。

残り5秒になっても、私の手は動かない。彼へ最後の質問をしたいが、彼は彼なりに次の走者への対応を考えなければならないと予想できるので、彼にこれ以上の質問を投げかけることは無駄に思えた。けれど、という情感が私を突き動かす。無駄かもしれないけど、それが人間の心に残るのなら、という思いが私の中に渦巻く。

彼がスタートの呼びかけを行うちょうどそのタイミングで、私は最後のメッセージを彼に伝えた。オリエンテーリング選手を止めます。確かめたいことができました、と。私はそう言って、磁気装置を差し出した。というのも、私の持っている磁気装置は電池がいつ切れてもおかしくないため、狙った競技会(狙った競技会自体は年に3回もない)ではいつも、運営側の準備した磁気装置を使うようにしているからだ。彼は意に介さないように、私から磁気装置を受け取って外套にしまい、彼の持つリストの私の欄に何かメモを記した。そうして私は、スタートの枠からスタートした。次の選手へスタート枠を譲りながら、私は私の次の認識に向けて、少しずつ年齢を重ねていくとしよう。加齢が人間の持つ性質のひとつであるのなら、それに逆らわず、そうすることで、年齢や性別、生きた時代に関係なく、より多くの人と会話ができるように。


そんな創作。おしまい。