2002年度を終えて

やはり、書かずにはいられなかった。
キィとなったのは、大学のゼミで耳にした
「愛知の鶏舎」と、「鶏糞」からイメージした嫌なにおいだった。



2002年度という年は、やはり様々なことを僕に与えたが
同時に大切な幾つかの事を奪いもした。
だが、それは有限の時間しか生きられない僕達にとって
避けては通れない道なのだろう。


2002年度の幕開けは、なかなか来ようとしない4年生から始まった。
僕は2年生だから4年生という生活が一体どういったものなのか知ることは不可能に近い。
おそらく、研究室や何かで相当忙しいのだろう。
だが、僕にとって呼ばなければ来ない彼らは
「関係を忌避した者達」に映った。

確かに、関係を持たないということはそれだけ責任が薄くなるという事で
なんだか株式の「有限責任制」に似ている。
当時の4年生にしては、それはそれでよかったのかもしれない。
だがしかし、当時2年生だった僕は、その事に対し
「宙ぶらりんになってしまった」という印象を持った。

また、同時に3年生という存在も同様に見えた。
頻繁に体サ(部室のような存在)に現れはしたが
僕にとって彼らは「仕事人」のように映った。
「仕事をするため」だけに関係しているような
そういったイメージを色濃く残した。

そんな中で始まった新歓。
そして、同時期にあったJWOCセレクション。
僕はかなり参っていた。
そして、僕が選択したのは「延命」だったわけだ。
それはきっと、早生まれという言い訳。
僕がセレに落ちたのは、まさに当然と言えた。

どうだったのだろう。
新歓を直接体験したことのない僕が仕切った新歓は。
当時の僕は、体験した事がないからこそ
何か新しい事が出来るのではないかと考えていた。

確かに、新しい事、新しいアイディアはあった。
だがしかし、当時の愛好会でそのようなアイディアを発揮する事は
何故か忌避された。

それは当然だった。
「関係を忌避する者達」と「仕事人」そして「宙ぶらりんの存在」
新しい事を始めるベクトルはそこに薄かった。

そして僕は、愛好会から足を遠ざける事になった。
ちょうど「体育会」という愛好会の上部組織と「運営委員」という関係を持つことになり
僕はそこに逃げ出す事になった。
体育会はとても居心地のいい場所で
僕は、体サよりも体育会執行委員会室に行く事がとても楽しみだった。

そして、愛好会を離れた事によって
自分自身でオリエンテーリングとのつながりを考える必要性に刈られた。
僕が熱心にウェブに打ち込んだのも
当然のように会外の合宿に出たのも
他大学にたくさんの友人ができたのも
きっとそういった理由だったのだろう。

だが、この試みは一応の成功を収めた。
僕は、愛好会とは違ったところでオリエンテーリングを楽しむ事になった。

これに対して、様々な人から批判を受けた。
僕は今でもそういった批判に対し彼らを納得させるような説明が出来ない。
かといって、僕自身も自分のそういった姿勢に対して確信を持てているわけではなく
ただ、今はかなり逃げ腰だが
「当時はそうするしかなかった」としか言を得ない。
そうする事でしか、僕自身オリエンテーリングを楽しめなかったのだ。
特に親しい先輩がいるわけではなく
かといってサークルに顔を出すと
あれをやれ、これをやれと言われる始末。

会員を減らしたのは、きっとこういった愛好会だったのだろう。
関係する事を忌避しながらも、仕事だけはしっかりやってもらう。
そのような雰囲気が、当時の愛好会にもその構成員にも
相互に、少なからずあった。

話を戻そう。
しかし、そのような状態が長く続くわけはなかった。
僕はそれを予期する事が出来ずに、見事にはまってしまった。
・すぐそこに迫った「消滅」
・25回大会の運営
・26回大会の事
・愛好会執行部会
・体育会執行委員会のメンバーへの誘い
・関東学連
・日本学連

関係と責任。
僕は関係から逃げる4年生を見ながら、その事に全く気付かなかったのだった。
いや、気付いてはいたが、あまりにも居心地がよいので
気付くまいとしていたのだ。

破綻は一瞬にして、一気にやってきた。
1ヵ月ほどして、僕は愛好会と関係する事で、たくさんの関係と責任を整理する事を選択した。

それ以来、僕は関係する事をしてきた。
しかし、関係する事は僕にとってかなりの負担となった。
自分の目標と関係する事による責任の板ばさみは
僕を破綻寸前まで追い込んだ。
それもそのはずで、2003年度日本学生オリエンテーリング選手権大会を例にとってもわかるとおり
僕は、やはりいまいち愛好会に溶け込む事ができずにいたのだ。


「インカレ全員参加」を目標にした2002年度。
だが、その目標はインカレをまで3ヶ月を控えて、破綻させられた。
そしてやってきたのは、目標のすり替え。
僕にとって、あれはすり替えにしか見えなかった。
残り3ヶ月にして、女子は「優勝」を、男子は「4位以内」という目標を立てた。
僕には全くそれが解せなかった。

春、目標を決めた時に
僕は4年生が、一年を通じて、最後までその目標を達成するために
最後まで色々な事をし続けるのだと思った。
そして、同時にそのような先輩の姿が見たいとも思った。

確かに彼らの弁解は的を外さなかった。
「これ以上、達成不可能な目標を掲げていてはみんなの志気が下がってしまうから。」
「みんなに元気を出してもらいたかった。」
でも、僕にはそれがただの「言い訳」にしか聞こえなかった。
一年間の目標は1年かけてなければ結果が出ないのに
きっと彼らは、途中で、結果を見る事に対して恐怖心を抱いてしまったのだろう。

そのころ、僕は大会の実行委員長として忙しい日々を過ごしていた。
前年度までの大会の反省を生かして、様々なアイディアを駆使し
何より問題としていた運営面の建て直し
すなわち、オリエンテーリング関係団体との関系・テレイン渉外・会場・交通・宣伝を改善した。
更に大会規模を上手に縮小する事で、今の愛好会で無理なく開けるような大会を模索し
それと同時に、規模縮小を上手に生かして大会そのものの魅力を引き出す事に腐心していた。
前年度の実行委員長が有効な一切の資料を残さなかったため
全てを自分で調べて、考えた。
そしてそれは、僕に多大な時間を削らせた。
オフィシャルには、今はそれをする時期ではないのではないかと言われ
僕はそのときこう答えた。
「今やらなければいけないんです。」
今思うとそれもやはり言い訳で、本音は
「どうしても解せず、どうしてもやる気になれなかった。」のだった。
当時の僕にとっては、インカレを勝つことよりも
致命的な大会開催を回避することが肝要だった。
そして何よりも、オリエンテーリングを楽しいと思ってくれる人がたくさん集まってくれる大会を開催する事で
今まで合宿や練習会などでお世話になった人たちや友人に、せめてもの恩返しがしたかったのだ。

しかし、オフィシャルはリレーメンバーとしての責任を僕に伝えた。



その直前、僕の脳裏にある一言がよぎった。
「このまま行けば、きっと4位以内には入れるだろう。」
そしてそれは、日々思い続けたために、まさに刷り込みのようになってしまっていた
ある嫌なイメージを僕に与えた。
「でも、それで本当によかったの?」
それは、当時の僕を崩壊させるキィとしては必要十分だった。
このようにして、僕はマップアウトという屈辱を経験する事となった。

鶏舎が、ひどく巨大で、ひどい匂いがして、逃げ出せなかったのを覚えている。

2003年度日本学生オリエンテーリング選手権大会。
女子は優勝し、途中から立った目標を達成した。
男子は7位に終わり、途中からたった目標を達成できなかった。
そして、僕がマップアウトしなければ3位か4位相当の成績を上げ
途中から立った目標を達成したはずだった。

表彰式のとき、しかし僕は非常に複雑で、喜ぶ事が出来なかった。
これは嫉妬とか妬みとは違うと思う。
多くの人の目には、それは嫉妬とか妬みのように見えたのかもしれない。
マップアウトした事によって、少し混乱しているのではないかと
思った人もいるだろう。


僕は今でも頻繁に思い出す。
あの3日間と、それにまつわる様々なエピソードを。
たくさんのランナー達の戦いを。
そして、優勝をつかんだメンバーよりももっと強く
オリエンテーリングを大切に思っている者達の事を。
僕はきっと、学生選手権での優勝よりも
そんな人達と出会えた事のほうが嬉しいんだろう。
そして、かれらの多くが学生卒業後もオリエンテーリングを楽しんでいる姿に
感動を覚える。


そして、今年僕は、どんな顔をして、3月を迎えるのだろうか。